散らばったものを、止めようとしなかった。
慌てる様子もなく、ただ起きる連続的な現象を静かに目で追っていた。
頭が痛かった。
「17時か…。」重たい体を起こして、湿気の高い夏の部屋の中で目が冷める。
じんわり身体から汗が染み出て、渇きを感じたわけでもないのに水分を求めた。
猛暑によって強制的に排出した一部を取り戻すような、そんな行為を、何かにを求めて冷蔵庫を開けた。
透明のプラスチックの容器に入れられた、二等辺三角形にカットされた赤いスイカ。
無機質な冷蔵庫の中にも放つ、かすかな果汁の匂い。
小学生の頃、殺してしまったカブトムシにスイカをあげていたことを思い出した。
父と捕まえた1匹のカブトムシが、環境の整った飼育ケースの中で飼われていたが、どれだけ記憶を辿っても、妹がその場面に出てこない。彼女は虫なんてものに興味がなかった。
いつもあげていた餌は、一口サイズのU字型の容器に入ったカブトムシゼリーだった。あの安っぽいカブトムシのイラストが書かれたフタを剥がすと、いちごシロップを掛けたかき氷が溶けた後みたいな、薄い赤色のゼリーの表面が現れる。
カブトムシの住むケースの中に、カップに入ったゼリーを置く。でも、7歳の私にはどうしてもその餌をカブトムシが喜んでいるように見えなかった。
ドックフードを前に、待てを命じられた犬みたいに「ハッハッハッハッ。早く食べさせて!」という意思表示もしないし、折角置いたゼリーを目掛けて一目散に、地面を歩いてやってくることもなかった。
このゼリーは、所詮、罰を償う囚人が与えられる形式的な食事のように、自然から離され、人間がエゴのもとに飼い続けるために与える、偽の食べ物でしかないのかもしれない。だから、「食べないと生命の危険が生じる」くらい極限状態にならない限り、カブトムシはこのゼリーを食べないんだ。そう思ってた。
母は夏になると、私達に夏らしいものを食べさせたがった。
かき氷もそうめんも、ゴーヤも、大きなスイカも、いろんな夏を口から取り入れさせようとした。
スイカなんて別に好きじゃなかったけれど、なんとなく夏に食べるスイカを拒否する子供は悪い子、というか、可愛らしくない子だと思っていた。
大きく三角にカットされたスイカにかぶりついて、種を楽しそうに外に飛ばす。
そんな子供があるべき姿なんだと、小学生の私は知っていた。
「このスイカ、虫にもあげてあげたら。」
切れ端を指して、母が言った。
スイカは、囚人ゼリーに比べらたら、「本物」だ。本物を前にしたら、カブトムシもカブトムシに生まれてきたことを喜ぶかもしれない。スイカが好きな一般的な子供を演じる私がスイカを食べるより、本気でこの果物の存在を喜ぶ虫にあげたほうが、スイカだって冥利に尽きるだろう。
なんだか、胸がかすかに踊った。
父と私によってプラスチックケースに入れられ、偽物にされた可愛そうなカブトムシが、本物の「虫」になる瞬間を見れるかもしれない。人工の囚人ゼリーに飽き飽きしたカブトムシも、スイカを与えられることで、人間の偉大さを感じ取り、ご主人様である私に感謝するかもしれない。
飼育ケースの中に置かれた、カブトムシが登る丸太の横に、スイカを設置する。
うつ伏せになり、腕に顎を乗せて、いつになく真剣に、ケースの中を眺めた。
カブトムシは、犬みたいには反応しなかった。
しかし、じっと様子を見ていると、いつしか爽やかな糖質に誘われて、ケバケバした華奢な足を動かしながら歩き出した。
目標物の前にたどり着くと、角の位置を調整しながら、
ゆっくりと、置かれたスイカの上にまたがる。
オレンジ色の口を押し付け、甘い蜜に吸い付く。
いつまでもやめない。そこから動かない。
虫の身体のなかに、本物の果汁が染み渡っていく。
私のことは見えているのだろうか。分からないけど、彼の真っ黒い目に生き甲斐という名の光が宿ったように見えて、はじめてこの虫に愛おしさを感じた。
愛おしいから、角を折ってあげようと思った。本物にしてあげようとしたのに。それからすぐして、カブトムシのお腹に変な白い虫がつくようになった。
父に相談すると、「仕方ない」といった。仕方なくはなかった。人間のせいでこんなジメジメした容器の中に入れられて、虫までこびりついて。カブトムシが気の毒だった。そんな可愛そうなカブトムシが気に食わなかった。
だから、死んだらすぐに、
ゴミ箱に捨てた。
冷蔵庫の2段目の棚に無造作に置かれたスイカの容器は、少し棚からはみ出していた。
たまに起きる、冷蔵庫の扉を開けるとモノが落ちてくるあの状態の前兆みたいな置かれ方。
大人になって、食べれるものが特段に増えて、見下していたスイカも、25歳を超えた今のほうが、ちゃんと美味しさがわかるようになった。クーラーもつけ忘れて、蒸し暑さで目覚めたこの熱帯部屋の夕方、私はあの水分が恋しい。
「スイカをたべよう。」
昨日の失態も、それを補うために飲みすぎたお酒も、このスイカの甘い水分が、私の身体のだめなものに染み渡って、カブトムシがあのとき本物に魅了されたように、私の気だるさを緩和してくれるかもしれない。
スイカの入ったプラスチック容器に手を伸ばした。
そっと触ったはずなのに、棚から少しはみ出ていた容器の端に思いがけない重みがかかって、スイカを入れたままそのパックは下に落ちていった。
プラスチックの容器は暴れることなく、綺麗に反転して薄いフタが開き、全体が地面にたたきつけられる頃には、スイカが床に飛び散っていた。
スイカの欠けた破片。
飛び出した黒い種。
ベトベトとした甘い蜜。
虫が虫であることを思い出させたスイカが、潔癖症な私の、髪一本落ちていない、コンクリートに白を流し込んだようなシャビーグレーの床を汚していた。
「欲しいか。欲しくないか。」
わからなかった。いつも、起きたことを、起きたままにしていた。必死にスイカを拾い上げて容器に戻すべきなのか、汚いからと床を拭き取ってゴミ箱に捨てるべきなのか、選べなかった。
何が正解かわからなかった。
足の指に絡みついた、本物の「蜜」たちが、私をさらに動けなくさせた。
たまたまスイカがあったから。別にもともと愉しみにしていたわけでもないから。別に。なんでもいいから、捨てようが、食べようが、病気になって、車に轢かれて死のうが。別にいいから、私には、意思がなかった。
それなのに、無意味に湧いた小さな「虚無」は、スイカからの、私が生きていることに対する罰なのかもしれない。
「どうしちゃったの。なっちゃん。」
無表情で立ち尽くす私の前に、了が現れた。
なんて答えたらいいかわからずに、私は無言のままでいた。
「足が、スイカまみれだよ。落としちゃったの? なっちゃん、スイカ好きなのに。」
私は、まだ動けず、熱さに疲れてしゃがみこんだ。
了は、180cmの身体をかがめて、目線を私と同じ高さに合わせる。
「食べたら。」
まっすぐ私の顔を見ながら、スイカの欠片を、親指と中指で拾った。
空いた人差し指を、塞がった私の口の中に入れる。
されるがままに力なく開いた薄い唇にスイカをあてがって、奥の空洞に放り込む。
軽さのある物体が舌の上に乗る。
甘さが神経を刺激して、小さく震える。
もしかしたら、私もカブトムシなのかもしれない。
汗で湿った身体に水分が小さく行き渡って、やっと現実に意識が戻る。
そのまま了は、濡れた指で身体をつたって、私の足首を触った。
骨に浮いた3本の血管を優しく撫でる。
「おいしい?」
動けたのに、動かずにいたのかもしれない。
そうやって、ダメな私を助けてくれるのを。
待っていたのかもしれない。
ベタベタの足のまま、手を引かれてお風呂場に連れて行かれる。
了は、レースのついた淡い水色のロングキャミソールを私から脱がして、
シャワーから少し熱めのお湯を出して、身体に掛ける。
無惨に散らばったスイカが、愛おしく思えた。

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